一般財団法人 貝原守一医学振興財団

貝原守一 を語る

貝原守一を語る

桝屋 冨一

杉山 浩太郎

野村 太郎

井上 忠

 

 

親友石田君よ 
                                         野村 太郎

 石田君(守一氏の旧姓)は小学生の時から貴公子然としていた。あの頃、僕たちはほとんど着物だったのに、彼は丸い銀縁のメガネを掛け、すらっとした体にきちんと洋服を着ていて、みんなの注目の的であった。
  当仁小学校から中学修猷館へ10人が合格した。大名小からは50人以上入ってきたと思う。五つの組の級長は成績順に決められるのだが、5人の級長のうち2人が当仁小から出たのである。その2人は三上、石田の両君であった。 館長から「当仁からは粒のいいのが来た」と誉められ、僕たちは鼻が高かった。
  石田君は体も丈夫だった。大車輪など器械体操が上手で、筋骨が隆々としていた。当時、軍事教練があって、彼は、号令をかけるのなど得意だった。みんな照れて一番嫌がるのに、堂々とやっていた。
  石田君宅は家も庭も広く、いい遊び場所であった。行くと「上がれ、上がれ」と誰でも歓迎してくれた。いちごとかバナナなど普投食えないものをよくご馳走になった。五高時代、石田君は寮長をしていて、僕が入ると喜んでくれ、1年間いっしょに暮らした。熊本の新市街のカフェーやおでん屋に寄ったり、よく遊んだ。石田君はアッププレ・パイが好きでよく食べた。金はいつも彼が払った。当時、金持ちが金を出すのは当たり前で、僕も平気で払わせていた。
  よく遊んだけど、石田君は五高でも1番か2番の成績だった。僕は試験が近づくといつも彼のノートを借りた。彼は毎日きちんと勉強していたし、頭脳明晰だから試験勉強なんかしなくてもよかったのである。きれいにノートをとっていて、僕は大いに助かった。九州大学へは、彼は医学部、僕は工学部へ進んだ。大学でもいっしょによく遊んだけど、研究もしっかりしていたんだなあ、「守一はものすごく優秀だ。新しい立派な仕事を初めようとしている」と加藤さん(守一君の義兄)が誉めていたもの。その新しい仕事が、永遠の旅立ちとなったインドネシア(ジャワ島)行きだったとは。

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